経済概観

 タイの過去半世紀の経済の動きをみると、まず目につくのが、実質国内総生産(GDP)成長率(実質経済成長率)がマイナス局面となったのは、51年間のうちで3年間だけだということだ。1997年7月のいわゆるアジア通貨危機の年とその翌年、世界経済を停滞に陥れることとなった2008年9月のリーマン・ショックの時だけである。
 それまでも、タイ政府の経済政策、特に外資政策によって経済成長率が左右されることはあったが、右肩上がりのトレンドに変わりはない。その点で、タイ経済がいかに順調に拡大してきたかが理解できる。

経済成長を支えたのは、1950年代以降今日まで製造業である。第2次産業は、1950年代から実質GDPに占める割合が10%台から20%台へと上昇、2003年には第3次産業を抜き、5割を占めるに至った。第3次産業は、実質GDPに占める割合は、1950年以降45%前後で推移している。
第2次産業のうち、当初は繊維、衣類などの軽工業が主力だったが、1990年代半ばから自動車、コンピューター機器類、機械、化学製品といった分野が伸び、輸送用機械、電気・電子機器に代表される輸出型の産業へと主役が移行した。
2012年には、タイ国内の自動車生産台数が初めて年間200万台を突破、タイ政府は2017年に年間300万台の生産を目指すとしている。タイトヨタも、現在の年間生産台数67万台を100万台にまで拡大する予定だ。

就業者数をみると、タイ経済の別の顔を見ることができる。
労働力人口に占める第1次産業の就業者割合は、1960年82.3%、1980年71.9%、現在は40~50%と、第2次・3次産業に雇用が吸収されながら減少の一途をたどっているが、依然就業者割合は第2次・3次を上回りマジョリティーである。
その点で、製造業が経済の発展に貢献したことは疑いがないが、より的確な表現を用いるなら、タイは第1次産業、特に農業を核とした輸出型製造業の国とも言えるだろう。

2012年4月より最低賃金が引き上げられたため、インフレが懸念されたが、洪水の影響があった2011年秋から2012 年にかけてコアインフレ率が低下したことで、消費者物価上昇率は3%前後の伸びで安定している。
2011年8月に発足したタイ貢献党のインラック政権は、外需に大きく依存した経済構造の変革を目指し、国内消費を喚起する内需拡大の政策を実行する方針を打ち出している。その目玉が、2013年1月1日から実施された1日の最低賃金300バーツへの引き上げで、全県一斉に開始された。産業界からは、依然根強い反対があり、消費者物価の上昇が懸念されている。

2011 年の名目GDP は約10.5 兆バーツ(3,456 億ドル)と、日本(5.9 兆ドル)の約6%の規模に相当する。1 人当たりのGDPは5,394 ドルで、日本(45,920 ドル)の約1 割の水準である。

 タイ経済について、簡単な変遷をまとめてみたい。
国家経済社会開発庁(NESDB)は、1961年以降5ヵ年ごとの国家経済社会開発計画を発表している。2012年から16年にかけて行われるのは、第11次国家経済社会開発計画となる。同計画の特徴は、経済成長率、1人あたりのGDP、インフレといった経済の分野だけでなく、貧困率、犯罪率などの社会分野も取り扱っている点だ。タイの貧困率は、2004年の11.2%から2009年には8.1%まで下がっているが、これも同計画がタイの諸問題を鳥瞰的に取り上げているからなのかもしれない。

その第1次国家経済社会開発計画(1961年~66年)では、重化学工業化政策という基本方針は変更しないが、現実的に軽工業化路線をとることがうたわれた。同時に、交通・通信、エネルギーなどのインフラ関係は政府が担うが、他の分野は民間主導で行うことが明記された。繊維産業のタイへの進出が始まった。
この時期はベトナム戦争と重なり、米軍兵站地としてタイ国内各地が利用されたことから、戦争特需と米国からの援助が成長を促した。
1970年代に入り、世界的な経済ナショナリズムの潮流の中で、対日貿易不均衡を受け1972年に日本製品不買運動が、1974年の故田中角栄首相訪タイ時には大規模な反日運動などが起こった。そのため、タイ政府は、外資導入から外資規制などに政策を転換せざるを得なかった。
原油を輸入に頼るタイは、1973年の第1次石油ショックと1979年第2次石油ショックによって成長を4・5%台へと鈍化させた。
1980年に入り、積極的な外資導入へと政策を方向転換させ、港湾などのインフラ整備を急速に推し進めるなか、1985年9月のプラザ合意の円高・ドル安容認により、日本企業のタイへの進出が急増した。1986年後半以降、直接投資が急増することにともない、タイは急速な工業化と二桁成長を遂げた。
しかし、工場建設に必要な設備や中間財などは輸入せざるを得ず、そのため輸入額が増加、経常収支赤字を拡大させる要因となった。
経常収支赤字の補てんは、海外からの巨額な短期資金であった。この時点で、外資流出が発生した時に、非常に脆弱である経済構造が形成された。
それが現実となったのが1990年代後半である。将来のバーツ通貨下落の予想が市場でふくらみ、国際投機家がバーツ売りに転じた。タイ通貨当局はドル売りで対応したが、結局効果はなく、1997年7月管理フロート制に移行し、その後タイは国際通貨基金(IFM)管理下に入った。原因は、経常収支赤字幅の拡大とバブル崩壊にあり、脆弱な経済構造を改革できなかった政府の失策だった。
IMFとの財政・金融改革のほかに、バーツの大幅減価と内需停滞により、輸出が伸び、外貨準備も蓄えられるようになる。2000年6月にはIMF管理から解放される。
2008年9月のリーマン・ショック時には、輸出減少と生産減に陥る。2008年12月から2009年4月にかけて、政策金利3.75%を1.25%までに下げ、財政面でも灌漑や交通といった遅れていたインフラを中心に1兆5600億バーツの財政出動がなされた。
2010年には、経済成長も回復したかにみえたが、2011年の洪水によりゼロ成長を余儀なくされた。1997年の通貨危機以来の失策であった。